昭和53年08月30日 朝の御理解
御理解 第63節
「一粒万倍といおうが。一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、よい手本になるような信心をせよ。」
よい手本になるような信心。一生懸命にお参りをされる。言うならば朝参り夜参りと言う様な人達もあります。そうすると周囲の者はどう言うかというと、「もうとても私どもはそげな真似はできん」ちこう言う。「とてもそげん参らんならんなら、私どもは、お賽銭が続かん」というふうにも申します。だからよい手本になる信心というのは、ただ一生懸命お参りをしてくると言う様なのでは、一粒万倍にならんことが分かるですね。「とてもあげん参らんならんなら、私共はでけん。」
でもやはり信心をいわゆる頂く。そしてその信心その人柄というか、その内容がです段々充実してまいりまして、そしておかげをやはり受けなければならん。なるほど信心しなさるから人間が変わんなさった。一家中がああだ。そしてやはり繁盛の一途を辿りなさる。「これは私どもはいっちょ信心せにゃいかんな」と言う様な事になる。一生懸命参ったり拝んだりすると言う事が、なら信心の手本では無い。信心を頂いて、もう言われることされることが違う。
そして確かに信心すりゃ、ああいうおかげも受けられると言う様な、やはりおかげを受けて初めて、一粒万倍だと言う事が言える。私は昨夜ここへ十一時過ぎに出てまいりました。それで昨日学院生の方達がもう、またあちらへ帰らんなりません前にレポートを出します。それで昨日は、高松和子さんと梅山さんが、二人出しておりましたから、読まんならんけれども、ずいぶん長いものですから、こんなに沢山あるですからね。これは二人分ですけれども。
けれども、ここにありましたから、少しばっかり読んどこうと思うてから、読み始めました。早うまた御祈念もして早く休みたいと思うておりましたから。少し読んどこうと思って読み出しました。始めに高松さんのレポートを読み出しました。もうほんとに見事な合楽の信心をまあ表現して綴ってあります。読まして頂きよりましたら感動が湧いてまいりました。中にも私がいわゆる信者時代に北野の教会にお話にまいります。
丁度その晩は、大城から電車で行こうと思いましたけれども、その頃神様からいろいろお指図頂きよる時でしたからその、「電車の道を辿って行きゃ教会の裏に出るから、この道を歩いて行け」と頂いたから歩きました。もう真の闇でした。初めて私は大城から北野まで電車道を歩かせて頂きましたが、途中から「走れ」と頂きました。それでもう一生懸命走らせて頂いてその、明くる日そこをまた電車で大城まで帰って来る時にたまがりました。ご承知の方もありましょうけれども、鉄橋ですかね、があります。
その上には枕木がずっと並べてあって、こうすいてるですよね。だから昨日「走れ」と頂いたのはここだなと思ったんです。それをただ一生懸命で「金光様、金光様」で走っておりますから、もう一歩足を踏み違え間違えたら、それこそ大ケガをするようなところをです、走って通っておるです。そう言う様な話が残っておるその話が、その中にあの書いてあります。信心のおかげを頂くひとつの極意と言った様なものがこの中にあるんです。自分の観念、自分の言うなら神経を使わない。
観念を振り捨てる。教祖様の御伝記の中にもありますね。竹の山を昼の間に全部切らしなさる。そしてその山を「さあ登れ」「さあ駆け下りよ」と言うてその、おりなさったところがございます。とても昼でも走っちゃ通られないような感じです。ここで言うならばあの観念を捨てると。例えば今日は雨が降るからお客さんが少ない。今日今頃は農繁期だからお客さんが少ない。例えば田舎の町で商売でもしておる者ならみんなそう言います。農繁期とてもしょうがない。雨が降りゃお客さんが少ない。
そういう観念が邪魔になるのです。この食べ物は胃には悪い。この食べ物がどうだと、もう自分達の少しばかりの、言うならば観念でそれを左右するところにおかげの受けられない、ほんとのおかげになってこないもとがあるから、そういう観念を打ち払う稽古を私の修行の時代には、一生懸命神様がさせて下さったように思うんです。まあその頃のお話がずっと書いてあります。ちょっとちょいと読んでから止めるつもりだったけれども、もう感動いっぱいで読み続けた。
そして梅山さんが書いておる、それもついでにもう読んでしもうた。私はね思うのはね、信心させてもらって頂かしてもらう喜び、それが感動ともなってくる。それが御用になる時に、その御用はもう生き生きとしてくると言う事です。眠さも忘れるきつさも忘れる。感動いっぱいで、私は今日思うのにね、その一粒万倍というその、万倍にもなるほどしの一粒とは、そういう信心の感動に溢れた生活。「真に有り難しと思う心 すぐにみかげの始め」と仰る。
そういう真に有り難いという心に伴うて来る所の人間幸福の条件のすべて。そういうものが頂けてくる、そういう信心であって始めて私は一粒万倍、一人がおかげを受けたために、千人も万人もおかげが受けられる様になると言う事になるのじゃないでしょうか。「一生懸命参りよります」「一生懸命修行しとります」と言うだけでは「とても私どもは、そげな修行はできん」「とても私どん毎日毎日とてもお参りはできん」と言うて、いかにも手本の様ですけれども、それだけでは手本にならないと言う事。
感動が湧いてくるような信心。そんなら、感動が湧いてくるような信心とは、どういうことだろう。昨日私、誰にお話しした時だか知らんけれども、ここに「治」という字と「与」という字。これは昨日の朝の御理解に書いてみましたね。今日の御理解を、ここを開かせて頂いてその、ほんとに一粒万倍のおかげになるような信心とは、この「治」と「与」とこの字二つを頂くんです。
それはどう言う事かというと、天の心、地の心と言った様な信心が自分の心の中に宿ってくるというか、自分の心の中にね、天地の心が頂けれる。言うならば、神様の心を心としてなどというと大変難しいごとある。とても神様の心が自分の、人間の心にするてん、そりゃ難しい。もう私どももそう思うてきた。けれども今合楽で言われる、なら合楽理念からいうと、「天の心」「地の心」とはね。地の心とは黙って治める。さんずい辺に無口と書いてある。
さんずいと言う事は自然。自然に様々なことが起きてくる。腹が立つこともあり、一口言いたい時もあるけれども、それを黙って心を神様に向けて、それを黙って治める。もうこの治め方が素晴らしい。それはそのまま「大地の心」だからなんです。大地がどんな煩わしい、どんな汚いどんな物を持って行っても黙って受ける。受けるだけではない、それを自分の肥沃の、言うならば土ともする。自分が肥えていくためのそれを肥料にするようにです、黙って治めるということはそんな素晴らしいことなんだ。
そういう信心がまず身に付かなきゃいけない。治める。与えると言う事は、与えると言う事は、今日の御理解からいうと、与えることによって自分の業がなくなって行くと言う。数字の「5」という字に横に「一」を書くと「与」という字になる。昨日敬親会でしたが、林さんのお母さんがお参りしてきてました。もうずいぶん一・二ヶ月も前の話でしょうけれども、「こげなことまではお願いできんと思うてしておりませんでしたけれども、やっぱお願いしとかなきゃいかんと思うて」というて。
その着物をたくさんじゃないけれども、一重ねとられた。その一重ねが羽織と長着で、自分が若い時に今の中国ですね、中国に旅行した時にその、主人に買ってもらった、言うならば思い出の着物です。もう一枚の長着は自分のご兄弟の、いわば生き形見にというて頂いておった着物であった。だから他んとならよかばってんが、そんいよいよ自分の思い出になるような羽織であったり、着物であったりと言う事が、まあ惜しかったとこういうわけなんです。
だから「いらんもんば人にあげるくらいなら、ほんとの与えるとにはならん」て私が言いました。「もう私はこげんとはいらんけん、あんたに与える」したら、もろうたもんもたいして嬉しゅうはなか。いらんもんばやりござるですもん。同じ人にでん与えるならば、自分にも少しはまだ未練があるくらいなもの。ちっとは惜しみが付くくらいなものを与える時に、それは美しい心と言う事になる。
私は昔から人にその大体がやり好きですから、友達やらが来ますとこうやって洋服ダンスを開けてから、いっぱいネクタイが掛かっておる。そうするとあのだいたいやろうと思うてから見せよるとです「はあこれはよかのう、これはええばい」ならそれをあげましょう。あとから「やらにゃよかった」ちゅう時が起こるんですよ。やっぱけれどもね、やっぱよかつからじゃから、けれども同じやるならば、「これはよかの」というごたるとばやれるような与え方じゃなからなければ、ほんとの与えるにはならん。
いや業がなくなるほどしの働きになってこない。というてそのことを話させて頂いて、「これも反対に先生に、ならお礼を申し上げにゃいかんことですたいね」と言うてまあ、思われ言われるように、まあお話しさして頂いたことでした。与える心。言うならば、天はそれこそ無条件。それこそ降るように与えておられる。しかも信心があろうがなかろうが、与えて与えて止まない、しかも無条件。それが天の心だ。天の心とは、もう限りなく美しい心だというふうにここでは説かれます。
だから「治める心」と「与える心」というここに書いておる二つをあの、今日の御理解を頂いたらここに書いて置いとるとば頂くわけ。だからそういう天の心地の心と言う様な心を心とする精進をさせて頂くような信心からなら、必ず天地のリズムが湧いてくる。起こってくる。いやいつも起こってるんだけれども、それを聞き取れ得ないだけのこと。私どものその心が天地に通う。そこにはひとつのリズムがある。言うならば日の日と光と書いて「晃」という。信心さしてもらうと自分が心に光を頂く
。日というのは太陽ということ。と人間神と人という意味です。これもある時に頂いた御理解、そのことを誰かが字引で引かせて頂いたら「日と光の旋律」と字引には書いてあるそうです。人間の言うなら生き方というものがです、神様と私どものいわゆるあいよかけよの世界。言うならば合楽の世界。日と光の旋律言うならそういう旋律が起こってくる。その旋律にのっての日常生活をほんとの意味においての信心生活だと思う。
そういう信心生活なら、必ずおかげも受けられるだろうけれども、人が付いてこんはずがない。一粒万倍のおかげとはそういう信心をいうのだと言う事でございます。だから私、信心によって私どもが「真に有り難い」という心が頂けれるためにも、そういう修行がなされなきゃならない。いわゆる感動。それこそ一ページならちょっと読んどこうかと、ちょっと読ませて頂いておるうちにです、そういうその感動的な表現に触れた時にです、こちらの心が躍ってきた。
そしてとうとう、これをやっぱり何十分か掛ってから読んでしもうた。そしてその後味が有り難い。日々言うなら喜びをもって御用にあたる。感動をもってその事に当らして頂く。そこには疲れもなからなければ、体がちびれると言った様な事はない。そういう生き方を信心によって身に付け、そういう信心をもってするならばです、やっぱ信心しなさるやっぱ違う。人間も変わってきなさる家も繁盛する。「これは私達もいっちょ信心しなきゃ」と言う様な心も起ころうというものです。
ただ一生懸命参りよる。一生懸命「はぁあの人のあげな真似はできん」「はあ熱心な信心しなさる」なら熱心な信心しなさるからというて、ならそれを信心の無い者はどう言うかというと「とてもあげん参らなんならんなら、とても私どもにはできん」ち。かえってそう言う事になるんです。だから信心の中身というものが、今日言うならば「治める」「与える」そういう天地の心を心として行く様な信心ならば、絶対一粒万倍のおかげにもなってくるでしょう。
自分もそのことによって徳を受けることにもなるのです。どうぞ「人の手本になるような信心をせよ」と仰る。手本になるような信心とは、言うならば天地の心を心としていくような信心。「はあ天地の心を心とするって、そげなこととても難しかろう」と言わずに、合楽理念をひも解いてご覧、もうそれこそ嬉しゅうして楽しゅうして、愉快にまでもなって行く様な手立てが説いてあるのが合楽理念です。そういう信心を人の手本になるような信心だというふうに思います。
どうぞ。